2018年5月14日月曜日

三河武士ゆかりの地を訪ねて-10

板倉勝重いたくらかつしげ 
 
・生誕:天文14年(1545)・別名:四郎右衛門
 ・生誕地:三河国額田郡小美村(岡崎市小美町)
  ・死没:寛永元年(1624)・墓所:長圓寺(西尾市)

    勝重は、板倉好重の次男として生まれ、幼年期に出家し
     浄土真宗の永安寺の僧となった。後に、父の好重が戦死、
さらに家督を継いだ弟の定重も高天神城の戦いで戦死
 したため、徳川家康の命で家督を相続しました。旗本、
 大名である。 江戸町奉行、京都所司代を務めました。
 優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、
  名奉行と言えば誰もが勝重を連想したと言われています。

        板 倉 勝 重                             家紋:九曜巴
 

板倉勝重公生誕地碑  
小美町深萩の民家にあります。

生誕地の説明板です、お読み下さい。

曹洞宗 長 圓 寺 西尾市貝吹町
板倉勝重とその一族の菩提寺
 
もとは現在の岡崎市中島町にあった永安寺が前身で、 
 慶長8年(1603)に板倉勝重が再建して中島山長圓寺と   
改めた。 寛永7年(1630)、勝重の長男である重宗が、 
     父の7回忌の際に現地に移した。境内には勝重の霊廟    
である肖影堂や、板倉家代々の墓などがある。    

まだ多くの紹介すべき武将はいますが、「三河武士
ゆかりの地を訪ねて」は、今回で終了とします。
ご覧頂き有難うございました。

徳川家康に関わる武将の顕彰について
徳川十六神将
家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた
16人の武将を顕彰した呼称。
徳川二十八神将
家康の功臣で日光東照宮に配祀された
28人の武将を顕彰した呼称。

武将の大部分は三河時代からの家臣で、領土拡張期に家康と
共に戦場で活躍した武功派の武将達である。創業期の苦しみ
や活躍を後世に伝えるために選ばれたと考えられています。





2018年5月2日水曜日

三河武士ゆかりの地を訪ねて-9


徳川四天王(4)

井伊直政 いいなおまさ          家紋:井伊橘
生誕:永禄4年(1561) 別名:井伊の赤鬼
   生誕地:遠江国井伊谷近くの祝田(浜松市北区細江町)
死没:慶長7年(1602) 墓所:清凉寺(彦根市)等

直政は、名門井伊氏の嫡男として誕生した。苦難を経て15歳にな
  った直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てた。
   天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで赤備部隊が活躍し、井伊の
   赤鬼と恐れらた。この功で6万石に出世し井伊家再興を果しました。
慶長5年関ヶ原合戦では、東軍の軍艦を務め徳川軍を勝利に導き、
  彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。その後、
     直政は関ヶ原合戦の傷(現在の破傷風)が元で42才で生涯を閉じた。

井伊直政公出世之地碑
直政は井伊直親屋敷(浜松市北区細江町祝田)
誕生。出世碑は龍潭寺境内にあります。

龍 潭 寺
龍潭寺庭園   小堀遠州作

井伊谷城址

井伊谷宮
拝 殿

 昨年はNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の
影響で大変賑わったと思いますが、画像は
何年も前に訪問した時のものです。

平成30.4.8(日)
岡崎市春の風物詩「家康行列」が開催されました。
その時の、井伊直政列の画像紹介です。
井伊直政公

徳川四天王は最終回です。

次回は、未定です。




2018年4月20日金曜日

三河武士ゆかりの地を訪ねて-8


徳川四天王(3)

榊原康政 さかきばらやすまさ         家紋:源氏車
生誕:天文17年(1548) 別名:小平太
生誕地:三河国上野郷(現豊田市上郷町)
死没:慶長11年(1606)墓所:善導寺(館林市)等

榊原氏は三河仁木氏の一族とされ、後に伊勢国一志郡
   榊原に移り榊原姓を称した。三河国に戻り松平氏の直臣
   酒井忠尚に仕える。康政は榊原直政の次男として誕生。
松平元康(家康)に見出され、数々の軍功をあげる。
   家康が関東に移封されると、康政は関東総奉行となる。
 上野国舘林城に入り10万石が与えられ大名となる。 

榊原康政生誕之地碑   豊田市上郷町

上 野 城 址   上郷駅から徒歩約10分です。

 本 丸 跡  祠がありました。

城址には、上郷護国神社が鎮座しています。

平成30.4.8(日)
岡崎市春の風物詩「家康行列」が開催されました。
その時の、榊原康政列の画像紹介です。



次回は、井伊直政を紹介します。



2018年4月11日水曜日

三河武士ゆかりの地を訪ねて-7


徳川四天王(2)

本 多 忠 勝 ほんだただかつ     家紋:立ち葵
   
         生誕:天文17年(1548)  別名:平八郎
         生誕地:三河国額田郡蔵前(岡崎市西蔵前町)
         死没:慶長15年(1610)墓所:浄土寺(桑名市)

       幼い頃から竹千代(家康)に仕えました。
       生涯の合戦に57回及んだが、かすり傷さえ負わなかった。
       武田軍から、家康に過ぎたるものが二つ、唐の頭に平八郎。
       信長から、花も実も兼ね備えた武将である。
       秀吉から、日本第一、古今独歩の勇士と称されました。
       家康公関東移封により、本多忠勝は上総大多喜十万石を
         賜り、関ヶ原の戦い後は、伊勢桑名十五万石に移封された。

本多平八郎忠勝誕生地碑  岡崎市西蔵前町
子孫が建てた碑で、民家の庭に建っていました。

本多忠勝が居住した洞城跡(岡崎市洞町)と伝わる。

岡崎公園の本多忠勝銅像
家康館の横にあり、観光客がよく写真を撮っています。
左奥は岡崎城です。 桑名城址にも銅像があります。

関ヶ原の戦い 本多忠勝の陣跡

旧本多忠次邸  東公園入り口
旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家本多忠勝系)の
末裔にあたる本多忠次が、昭和7年に東京都世田谷区に
 建てた住宅を移築し復原したものです。見学可能です。

平成30.4.8(日)
岡崎市春の風物詩「家康行列」が開催されました。
その時の、本多忠勝列の画像紹介です。

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次回は、榊原康政を紹介します。


2018年3月17日土曜日

三河武士ゆかりの地を訪ねて-6

徳川四天王ゆかりの地

徳川四天王の概略を紹介します


 徳川四天王は、安土桃山時代から江戸時代初期に、
徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に
功績を立てた「酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・
井伊直政」の4武将を顕彰した呼称です。

徳川四天王(1)
 
酒 井 忠 次 さかいただつぐ   家紋:片喰カタバミ紋
                      徳川四天王の中では、最年長で筆頭であります。
                      生誕:大永7年(1527)三河額田郡井田城(岡崎市井田町)
                      別名:小平次(幼名)、小五郎、五衛門尉
                      死没:慶長元年(1596) 墓所:知恩院(京都市東山区)
竹千代(家康)が人質となって、今川義元のもとに
出されると、忠次はこれに随行しました。
(竹千代6才、忠次22才の時)

忠次は、三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、
小牧長久手の戦い等で数々の武功を挙げています。
家康が関東に移封された時は、既に隠居して嫡子家次に
家督を譲り、その後京都で生涯を終えました。

忠次は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の
厚い信任を受けた武将でした。

酒井家代々の居城であった
井田城址  岡崎市井田町
 井田城址碑
現在は城山公園

城址は住宅街にあり、城山公園には
城山稲荷社があり静かな所でした。

追 記
平成30年4月8日(日)
岡崎市春の風物詩「家康行列」が開催されました。
その時の、酒井忠次列の画像紹介です。
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次回は、本多忠勝を紹介します。




2018年3月1日木曜日

三河武士ゆかりの地を訪ねて-5

 大久保忠教(ただたか)

               大久保忠教(通称:彦左衛門)は、戦国時代から江戸時代
              前期の武将、江戸幕府旗本、徳川氏家臣である。
                                        永禄3年(1560)三河国上和田(岡崎市上和田町)で
                                     大久保忠員の八男として生誕する。幼名は平助。
                                        兄に活躍した武将の大久保忠世、忠佐、忠為がいる。
                                        時を経て、三河国額田(幸田町坂崎)に2千石を拝領する。
                                        寛永16年(1639)死没する。墓所は、長福寺(岡崎市)
                                     本禅寺(京都市)立行寺(東京都港区)にある。

大久保一族の発祥地 岡崎市上和田町

大久保一族発祥の地碑

八百富神社(陣屋跡) 額田郡幸田町

大久保陣屋跡の説明です。

陣屋の跡には石垣が一部残っています。

大久保家菩提寺 長福寺 
長福寺の案内板より、
                                       「この寺は以前、鳳来寺の末寺として天台宗であったが、
                                     日蓮の弟子日印が、文保2年(1318)京都に上る途中に
                                     立ち寄り、法華宗に改宗させた」と本尊の脇書に配され
                                   ている。天文16年(1547)6月大久保家の初代宇津忠茂が
                                   長福寺に葬られて以来、大久保家の菩提寺になりました。
                                      宇津家は後に大久保に改姓し「三河物語」を残した大久保
                                   彦左衛門の墓も「死後は長福寺に葬るべし」との遺言により
              一族の墓地とともに、この寺に建てられています。
                         
長福寺 山 門  岡崎市竜泉寺町

本 堂

大久保(忠教)彦左衛門墓所
墓所は長福寺境内より離れた場所にあります。

次回は、徳川四天王です。